** 帰る場所 **



  ちらっと目に入った時計の時刻は、すでに二十三時を回っていた。

「嘘だろ…？」

  一瞬自分の目を疑った真人は、改めて自分の腕時計で正確な時間を確認する。何度も見返したところで、時間は刻々と流れていくだけだ。仕事に集中し始めると周りが見えなくなるのは、仲間から何度も指摘されているので気をつけてはいるのだが、まさか今日に限ってその悪い癖が出てしまうとは。
  意を決したようにてきぱきと仕事を切り上げ、家路を急ぐ。自然とハンドルを握る手に力が入る。何が何でも日付が変わらないうちに家に着かなければ。
  その反面、家でひとり待つルイの機嫌を考えると、このままＵターンしていっそのこと朝まで仕事をしていたいという衝動にも駆られる。だが、それを実行することは一時の逃げの為にしばらくの間、自分の帰る場所を失うことを意味していた。それだけはどうしても避けたい。
  公道ではいつも安全運転の真人だったが、今日は下手をすればスピード違反で捕まってもおかしくないくらいの勢いだった。それ程彼の心は焦っていた。何故なら、今日は真人とルイにとって特別な日。結婚記念日だったのだ。





「今日は早く帰るって約束したのに……」

  はっきり言って、ルイは一般に言う『記念日』に執着する人間ではなかった。それに、真人の仕事が最近忙しいことも知っていたし、彼自体ルイと同じく、いや、それ以上に『記念日』には全く疎いタイプの人間だということも知っていた。きっと結婚記念日だって忘れているに違いない。だから、今日の結婚記念日だって普段通りに過ごそうと考えていたのだが。

『「明日は特別な日だから、早く帰るよ』

  昨夜、真人からの思いもかけないセリフにルイは驚いたが、自分たちの結婚記念日を覚えていてくれたということと、その日をできるだけ一緒に過ごそうとしてくれた彼に素直に感謝した。その感謝の気持ちを伝えたくて、腕によりをかけて料理を作った。料理に合うワインも用意したし、もちろんデザートだって用意してある。真人が好きだと言っていたピンクのガーベラもテーブルの上を明るく飾っている。ルイ自身も、少しだけドレスアップして、そして、少しだけ大人っぽいメイクにも挑戦した。自分がこんなことをするなんて、相当浮かれているのね、と苦笑いを浮かべながら、まだ帰らない真人を待つルイだった。





  真人が家に着いたのは辛うじて日付が変わる十分前。玄関の鍵を開け、急いでリビングへと向かう。そこはどんなに帰りが遅くなっても、笑顔で自分を出迎えてくれるかわいい妻がいる空間。その笑顔は疲れた体も心も癒してくれる、かけがえのない大切なもの。しかし、今日は事情が事情である。真人が足を踏み入れたリビングはいつもの温かい空間ではなかった。何故なら、その笑顔の持ち主がどこにも居ないからである。最小に設定されている部屋の明りの中に、ルイの姿を探すがどこにも見当たらない。目に付いたのは隣りのダイニングルームのテーブルの上。すっかり冷めてしまったディナーと、ピンクの花が薄暗く浮かび上がる。この花はいつだったか自分が好きだと言った覚えがある。それを覚えていてくれたのだと思うと、胸が締め付けられる気がした。
  寝室のドアを開けると、ベッドの上にルイの姿があった。ベッドサイドのライトを点け、うつ伏せに横たわるルイの脇に腰を下ろすと彼女は少し眩しそうにしながら真人とは反対側に顔を隠す。

「……ルイ」

  ルイが少なからず怒っているのは当然分かっていたし、悲しい思いをさせた原因も自分にあることは百も承知なので、兎に角、謝るしかない。

「ごめん、気がついたらもう十一時過ぎてたんだ。その、約束を忘れていたわけじゃなくて……いや、忘れてたんだな、全部俺が悪かったんだ、ごめん」

  ピエールやスタンレーは、こういうシチュエーションでも上手く切り抜けられるのだろうな、と勝手に頭の片隅で羨ましく思いながら、必死で謝罪の言葉を口にする。

「……ずっと、待ってたんだから」

  枕に顔を隠しながら応える声はかすかに震えていた。きっと、泣いていたのだろう。

「ごめん、ルイ……」

  優しくルイの頭を撫でると、柔らかい髪の毛が指の間をすり抜けてゆく。真人は静かに自分の指に絡まる髪に、枕に埋もれそうな頭に、冷たい耳に次々とキスを落としてゆきながら、許しを請う。
  ルイはその真人の必死な優しさが何だか可笑しくて、そしていつの間にか、すっかり彼を許してしまっている自分にも可笑しくなる。今度ばかりは絶対に許さない、と心の中で叫んでいたのはたった十分前ではなかったか？なんだかんだ言って、真人が困っているのを黙って見ていられないのだ。笑い出しそうになるのをぐっと我慢して、身体を反転させ真人を正面に見る。ゆっくりと笑顔を浮かべながら、真人の顔を両手で包み込む。

「今度から、遅くなるときは連絡を入れてね？」

  ルイは返事を待たずに真人を自分の方へ引き寄せると、その唇を塞いだ。返事はいらないのだ。何故なら彼は『集中すると大切な約束まで忘れてしまう』性分なのだから。
  でも、だからこそ、これからも今日のようなことは起こり得るわけだから、これ位の一方的な約束くらいさせて欲しいと思うルイだった。





  その後、温め直されたディナーとワイン、デザートまで全部平らげた真人は、泣いて赤くなった目を気にしながら目の前で微笑むルイを見つめて、密かに思った。

  自分の帰る場所はやっぱりルイ（ここ）以外に無いのだ、と―――――。


終